22年前の今日を思いだす。1月17日朝


阪神・淡路大震災が起きたのは、1995年平成7年1月17日5時46分の事でした。

当時、元夫の転勤で尼崎市の南塚口に住んでいた私は、まだ寝室で、ぐっすりと眠っていました。

突然の激しい揺れに目を覚ました私と元夫は、あまりの揺れの激しさに動揺し、ベッドから起き上がれずにいました。

元夫は、静岡育ちなので、地震にはかなりの免疫があったにもかかわらず、あんなに慌てた彼を見たことはないくらいの同様でした。

子供の寝室が別だったので、急いで見に行こうにも立ち上がれない状態の揺れ。

やっと揺れが収まった時に、急いで子供の様子を見に。

何と子供の布団の周りに、棚に上げてあったものが、すべて落ちていました。

なのに、子供には一切ぶつかっておらず、亡くなった父のおかげか?などど思ったりするほどの最初の揺れでした。

家の中はめちゃくちゃに、なっており台所は、冷蔵庫が開いた状態、

炊飯器は、タイマーで前日にセットしておいたので、炊き立てのご飯の中身が、そこら中にまかれた状態となり、移動式の台の上に乗っていたので台が、ガス代がある奥の方からリビングの入り口まで飛んできている状態でした。

それでも、建物に亀裂は入っておらず、私はそのままざっとかたずけて、子供の幼稚園に行く準備と元夫の会社へ行く支度や弁当を作っていました。

水道もガスも電気も家のマンションは、普通についていましたので、大した事はないと関東の人間として、感じていました。

テレビでは、三宮や元夫が通っていた場所ポートアイランドが惨状になっているのを他人ごとのようにみながら、元夫は会社に電話をしていました。

私は、玄関の戸を開けて、初めて今、大変な事が起きているんだと追う事を知りました。

家の外は、お向かいの木造の一軒家は全壊しており、道路には亀裂が入り、ガス管や水道管が破裂していました。

通りを渡った向かいの本屋さんのあるビルは、半壊しているにもかかわらず、店は、開店していたのにも、さらに驚き、駐車場の車が整列したように、45度回転していました。


それでも、幼稚園のバスが来るのかと子供と待っていたところに、幼稚園のママ友が来て、

「こんな地震があったのにバスが来るわけないでしょ!」と一括されて我に返るという

人は、あまりにも予想だにしない事が起きると、通常と同じ生活行動を取ろうとするものなのかと

我に返ったような気持になりました。

元夫も駅まで行って、「駅が大変な事になってる。とりあえず会社でバスをチャーターしたので、

会社まで行ってくる」と出かけた後。

お隣の阪急伊丹駅で駅員さんが1名なくなったとのニュースを見て、

これが地震なんだと後になってから身震いする思いでした。

その後も余震が続き、いつ建物が倒壊するんじゃないかという不安を抱えながら数日後には、

元夫が転職先を決め、家は一家で横浜に戻ってきました。

ですが、車で関西を離れる時もビルの倒壊の激しさが目に焼き付いて離れなかったことは今も覚えています。

あれから22年、子供も成人し、今日のニュースをみると早いもので、まさか関東でも大きな地震に見舞われるとは思ってもいませんでしたが、建物が,倒壊しない限り備蓄は必要でしょうね。

といっても、家ではあまり対策はしていませんが。
人の記憶とは、薄れていくものなのでしょうか。

それとも私だけなのかもしれませんが。

だからこそ、震災や戦争を忘れないように語り継いでいかないといけないのでしょう。

人の記憶は、あいまいになり、忘れ去られて行くものだから。

様々な震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、風化させないように未来に受け継いで行ける様生きている私達が、話していかないといけませんね。


2017年1月17日(火)ご冥福をお祈りし黙とうさせて頂きます。



阪神・淡路大震災とは、1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大規模地震災害である。
1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、Mj7.3[注釈 1]の兵庫県南部地震が発生した。
近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。大阪府ではABC朝日放送本社1階(2008年5月の移転前の建物)のショールームの窓ガラスが割れて散乱した。新大阪駅では新幹線ホームの駅名表示看板が落下したり、駅構内の窓ガラスが散乱するなどの被害を受けた。奈良県でも建物のガラスが道路上に落ちるなどの被害もあった。京都府の広隆寺などの寺院でも被害が出た。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模であり、戦後に発生した自然災害では、犠牲者の数で伊勢湾台風の5,098人を上回り、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。
ウィキペディアより
阪神・淡路大震災

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